以前久米島博物館に見学に行った時、第二次世界大戦の展示を見ました。
その展示によると、久米島でも戦争の影響や、特に日本軍により集団自決を促されて島民が死んでしまうという悲劇がありましたが、死傷者や戦争被害は他の沖縄各地と比べると少なかったのです。
当時はなんでだろうかと不思議に思いつつも、戦火を免れることができたのだな、くらいにしか思っていませんでした。その後その背景には「無名の英雄」とも呼ぶべき、ある人の行動があったことを知ったのです。
仲村渠 明勇(なかんだかり めいゆう)さんの行動
仲村渠 明勇(なかんだかり めいゆう)さんは、久米島出身の海軍上等兵でした。沖縄本島で米軍に捕虜として捕まり、その後は久米島出身とのことで米軍と一緒に久米島へ上陸。戦争終了後に日本軍の残党の残る久米島で、米軍への投降を呼びかけていました。
艦砲射撃を止める
沖縄本島で米軍に捕虜として捕まった際に、久米島にも軍艦による射撃が行われようとしていたことを知ったのです。彼は米軍にかけあいました。「久米島には数十人の通信兵しかいないから、艦砲射撃はやめてくれ」と。
彼の言動により、艦砲射撃は中止されることになったそうです。軍艦による攻撃が島に行われていたとしたら、きっと少なくとも何百人もの命が失われていただろうということは、想像に難くありません。
投降を呼びかける
仲村渠氏は、日本軍の残党により支配され、誰を信じていいかわからない住民に、米軍に投降するよう説得して回りました。「戦争は終わり、身柄は国際法で保護されるよう決まっているから命の心配はない」と。
久米島に潜伏していた日本軍からは「米軍に投稿したらひどいことをされた挙げ句殺される」と吹き込まれていたので、住民は何を信じていいかわからない状態だったことでしょう。それでも投降し、命を救われた人は多くいたはずです。
仲村渠氏は最後は、島にいた日本軍の通信兵達に、家族ともども惨殺されてしまいます。非常に悲しいことに。
慰霊の日の読書会で
この話を知ったのは、慰霊の日前日の読書会でした。慰霊の日にちなみ、「戦争と平和」をテーマに各自が本を紹介する時間で、博物館のGさんやMさんからお話を聞いたのです。
読書会では、戦争を避けるためには人から支配されるのではなく自分で考え行動すること、過去起きたことに学び未来を考える知恵の重要さや、将来が戦争に向かっているんじゃないかと敏感にアンテナを立てることの重要さについて話し合いました。
慰霊の日に思うこと~戦争を避けるには~
仲村渠氏は、そもそも英語力があり、米軍の会話が理解できる「学」がありました。米軍と交渉したり、住民を説得する「交渉力」がありました。何より、命をかけて行動する「勇気」がありました。
久米島を戦禍から守った無名の英雄、仲村渠氏の行動から学び、久米島が、沖縄が、日本が、今後も「戦争をしない」という選択がとれる地域であり国であるよう、今日この慰霊の日に願いたいと思います。
そして僕自身も、まちや組織において中央集権ではなく自律分散のあり方を実現し、反知性主義を否定し考え続けることを奨励することで、微力ながら平和の担い手でありたいと改めて思いました。
【参考】
沖縄戦で敵味方に分かれた“日系2世兄弟”の悲運 | 日系通訳兵は「久米島住民虐殺」の現場を見た | クーリエ・ジャポン
日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN
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