種田山頭火が残した自由律俳句にこのようなものがあります。
まっすぐな道でさみしい
彼がどのような気持ちだったのか、わかるようなわからないような気がしますが、
きっとどこまでも続くまっすぐな道に孤独を感じたのではないでしょうか。
まっすぐな道でさみしい鉄骨渡り
名作マンガ「カイジ」の中で、
多重債務者がひたすらビルの上に渡された鉄骨を命がけで渡る
「鉄骨渡り」というゲームをする伝説的シーンがあります。
鉄骨から落ちてしまえば、
その人の命はありません。
渡された鉄骨を歩くとなりの人に、
同じように歩く自分は触れることも、
ましてや助けることなんて
できやしません。
鉄骨自体は交差しておらず
並行に渡されているのですし、
そもそも自分が渡るのに精一杯なのですから。
ただひたすらに、
黙々と橋を渡り、
落ちてしまった人がいれば
その人のことをくやみ、嘆く。
そして、となりに歩いている人がいれば
接触することはできなくとも、
心の支えとなる。
これは、まっすぐな道でさみしい、という
言葉であるようにも思えるのです。
僕らはみんな鉄骨を渡っている
僕らの人生は、
どんな人であろうともどこか
鉄骨渡りのような、
まっすぐな道を歩いているようなものなのだと
思えてきます。
どれだけの人が歩いていようとも、
渡された橋は並行。
のびている道はまっすぐ。
そんなさみしさがありながらも、
隣に歩く人の息遣いや声が聞こえ、
すこし励まされたような、
そんな気持ちになる。
そしてまた一人で歩いていく。
基本的に、生きるということは
そんな寂しさを抱えて
ぽつぽつと歩いていくような
ものなのではないでしょうか。
生きていてよかった、そんな夜もある
でも、ときたま、
それこそ十年に一度くらいかもしれません、
人生のふとした瞬間で
だれかと道が交わる、
そんな日が
たまに僕らに訪れてくれます。
何か大切なものを
お互いに分かち合えるような、
言わずとも通じ合うような、
感覚をその場にいるみんなで共有するような、
そんな夜があるのです。
そんなとき、僕らは
「ああ、生きていてよかった」と
思え、
そんな夜があるからこそ、
また寂しい
まっすぐな道を
歩いていけるのだと思います。