こんにちは、いしおです。
沖縄は久米島に暮らし、
2年と3ヶ月になろうとしています。
今日は沖縄野菜の代名詞とも言える
「ゴーヤ」について
考えてみることにします。
ゴーヤがなかなか育たない東京時代
僕は東京時代、畑が備え付けてある
シェアハウスに住んでいたことがあるのですが、
そこでゴーヤを育てようとしていました。
でも、何回かチャレンジしたけど、うまくいかない。
ズボラな育て方をしていたこともあるのでしょうが、
発芽すらしない状態でした。
食べた後のゴーヤを畑に蒔けば意外と勝手に育つ沖縄・久米島
時は経ち、沖縄は久米島に移住してきました。
やはりたまたま畑つきのアパートに
住めることになったので、
適当に苗を買っては植えたり、
野菜くずや種なんかを
土に埋めたりしていました。
そうしたら、ゴーヤが
すくすくと生えてきたのです。
夏場だろうと冬場だろうと。
しかも、一度生えてきて実がなり、
熟れて種がこぼれおち、
また勝手に生えてくる、
そんなめくるめくゴーヤライフサイクルが
家の外の畑で廻り始めたのでした。
教訓めいたものをひねり出すとすれば
この体験から、何かしら教訓めいたものを
ひねり出すとするならば、
こんなことが言えるのかもしれません。
種から芽が出て、育ちやすい場所ってあるよね
1つ目は、同じ種を蒔いたとしても、
育ちやすい場所と育ちにくい場所が確かに存在する、
ということです。
たとえば「置かれた場所で咲く」という言葉は
とても美しい言葉ですし、
重要な教訓が込められているのだと思います。
ですが、咲こうとする努力で
身も心もすり減らして
結果死んでしまいそうになるくらいなら、
さっさと置かれる場所を変えてしまうのも
ひとつの手でしょう。
※関連
https://i-shio.com/2018/07/12/responsibility1807/
「ていねいなくらし」が無理でも「雑な田舎ぐらし」はできる
もう一つは、種類や形や味にこだわらなければ、
ズボラな人間でも野菜は育てられる、ということです。
もうちょっと抽象化すると、
「ていねいなくらし」が無理でも
「雑な田舎ぐらし」は可能である、ということ。
都会での暮らしが人生で長かったので
よくわかるのですが、どうしても
都会の人間が田舎生活に憧れたときに、
「ていねいなくらし」に理想を抱いてしまうのです。
でも、「ていねいなくらし」が出来る人って、
都会にいようが田舎にいようが、
それなりに「ていねいなくらし」をしているのだと思います。
ていねいなくらしができる人は、
都会にいても、毎日ちゃんとワイシャツにアイロンをかけ、
そこそこ決まった時間に栄養バランスに配慮した食事をとり、
適度な運動をし、毎日風呂に入り、
休みの日には家中掃除や選択をし、
味噌汁は出汁をとり、
家族や友人を大切にするような。
もしくは仕事や都会の喧騒に追われ、
そんな生活ができなければ
大きなストレスを抱えてしまうような人なのだと思います。
だけど、別に一日や二日風呂に入らなくても、
家中ホコリだらけでゴミだらけだろうとも、
毎日の食事が米やパンだけだろうとも
それほど気にならない(許容量が大きい)人種が
存在します。
それが僕らのようなズボラ人種です。
ズボラ人種が田舎に行こうともズボラなままで、
アイロンがけなんてめったにしないし、
釣った魚はさばくのがめんどくさいし、
家中はちらかったままです。
庭の草は伸びっぱなし、
食べ物はよく腐らします。
だから、ズボラ人間が
ていねいな暮らしにあこがれて
田舎に行っても、
ていねいな暮らしはできない。
ていねいな人間にはなかなかなれないのです。
でも、「ていねいなくらし」は無理だとしても、
雑な田舎暮らしは楽しめます。
庭にてきとうに種を蒔いておけば
生えるものは生える。
伸びるものは伸びる。
実るものは実り、
実ったら食えはする。
美味いかはわからんですが。
そんな教訓を、沖縄は久米島で
生えたり生えなかったりする
ゴーヤたちから、
教えてもらったのでした。
終わりに
ちなみに
「尻ぐされ」とやらを起こしているけど
食べられるトマトだって採れます。
育ちやすい場所で生きてもいいし、
田舎暮らしは雑でもいい。
もっと気楽に、
楽しんでいきましょう。